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東京地方裁判所 平成4年(レ)61号 判決 1993年8月30日

主文

一  原判決を次のとおり変更する。

二  被控訴人は、控訴人から四〇〇万円の支払いを受けると引換えに、控訴人に対し、別紙物件目録記載一の建物につき、東京法務局新宿出張所昭和六二年五月二六日受付第二四二〇四号をもつてなされた条件付所有権移転仮登記の抹消登記手続きをせよ。

三  控訴人のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用は、第一審、第二審を通じて被控訴人の負担とする。

理由

一  請求原因事実は当事者間に争いがない。

二  そこで、抗弁について判断する。

1  《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

(一)  亡甲野松太郎は、昭和二四年一二月ころ、本件建物の敷地である別紙物件目録記載二の土地(以下「本件借地」という。)を所有者亡横山守雄から賃借し、昭和三一年一月ころ本件建物を建築した。

(二)  松太郎は、昭和五三年ころ本件建物の二階を株式会社イトサン商事に賃借し、また、昭和六二年当時本件建物の一階を丸山某に賃貸していた。

(三)  松太郎は、昭和六二年四月、自己が住む板橋区内の借家を明け渡して、控訴人とともに茨城県潮来町に転居した。

(四)  本件建物の二階の賃借人である前記株式会社イトサン商事を経営する伊藤三郎は、被控訴人の支配人でもあつて、かねてから本件建物を被控訴人に売却してくれるよう松太郎に申し入れていたが、昭和六二年五月一日、三郎は右潮来町の松太郎方を訪ね、同人との間で、抗弁1記載のとおり、松太郎が本件建物をその敷地の借地権(本件借地権)とともに地主の譲渡承諾を停止条件として被控訴人に売り渡す旨の左記内容の売買契約(本件売買契約)を結んだ。

(1) 売買代金 二〇〇〇万円

(2) 支払方法

ア 昭和六二年五月一日、手付金として二〇〇万円

イ 昭和六二年五月二〇日限り、条件付所有権移転仮登記手続きをするのと引換えに中間金として二〇〇万円

ウ 地主の譲渡承諾を得て本登記手続きをするのと引換えに残金一六〇〇万円

(3) 特約

ア 松太郎は、中間金二〇〇万円の支払いを受けるのと引換えに条件付所有権移転仮登記手続きをする。

イ 松太郎は、速やかに、借地権譲渡について地主の承諾を得る。

右承諾を得るに必要な費用は全て松太郎の負担とする。

被控訴人は、松太郎の費用負担において、松太郎に代わつて地主の承諾を得ることができる。

(五)  三郎は、本件売買契約に基づき、昭和六二年五月一日手付金二〇〇万円を、また、同月二一日中間金二〇〇万円を支払つた。

(六)  昭和六二年五月二六日、本件売買契約に基づき、本件仮登記がなされた。

(七)  本件売買契約が結ばれた昭和六二年五月一日当時、本件借地権価格は、株式会社イトサン商事等本件建物の賃借人の持つ借家権価格を控除すると、一億二九八二万円であり、地主に対する適正譲渡承諾料はその一〇パーセントにあたる約一八五五万円であつた。

(八)  前記亡横山守雄の相続人である横山佳明らは、平成三年二月、控訴人に対して本件借地賃貸借契約の更新料として二三八〇万円の支払いを求める等の調停を申し立て、同年一一月二〇日、控訴人と右横山守雄らとの間で、平成三年一月以降の借地料を月額四万五〇〇〇円とし、更新料は支払わない旨の調停が成立した。

以上の事実が認められる。

2  右認定のとおり、松太郎は、昭和六二年五月一日、被控訴人に対し、地主の譲渡承諾を停止条件として、本件建物と本件借地権を代金合計二〇〇〇万円で被控訴人に売り渡し、同日、手付金として二〇〇万円を受け取り、更に同月二一日、中間金として二〇〇万円を受け取つたものである。そして、被控訴人は、本件売買契約に基づいて本件仮登記を経由したものである。

3(一)  右認定に対し、控訴人は、前記のとおり、「松太郎は、昭和六二年五月一八日、三郎から、『板橋の明渡料をもつとたくさん取つてやる。四〇〇万円の明渡料では低い。俺が交渉してもつとたくさん取つてやる。』旨言われて、その言葉を信じ、乙一号証等の各種書類に署名押印したものである。」旨主張する。

(二)  しかし、以下に述べる理由により、右主張は採用できない。

(1) 原審における控訴人本人尋問の結果及び原審証人高野哲夫の証言中には右主張にそう部分があるが、原審における控訴人本人尋問の結果は、印鑑登録票を誰が入手したか等の重要な部分について発問の仕方で答えが変わる不安定なものであつて、にわかに措信しがたく、証人高野哲夫の証言も控訴人の報告に基づく伝聞に過ぎないのであつて、同様に措信しがたい。

むしろ、明渡料の追加交渉を依頼するのであれば、三郎よりも高野哲夫に依頼するのが自然であると認められ、また、原審における控訴人本人尋問の結果によれば、明渡料追加交渉の対象とされている板橋区の借家は松太郎が控訴人の叔母から借りていたもので、松太郎が管理をするということで家賃も支払わずに住んでいたものであつて、更に明渡料の追加交渉を依頼するというのも不自然な話である。

(2) 次に、控訴人は、「乙一号証(建物の売買契約書)の形式は極めて不自然であり、これは、白紙に署名させておいて後で必要な事項を記入して完成したもので、偽造文書である。」旨主張する。

たしかに、乙一号証は、売買物件名が用紙の末尾の契約当事者署名欄の上部に点線で囲つて記載してあり、いかにも空白部分に書き込んだかのような外観を呈して偽造されたのではないかとの印象を受けるものではある。

しかし、原審証人伊藤三郎の証言により本件売買契約に関して作成されたものと認められる乙七号証(登記申請手続きの委任状)には、松太郎の署名押印に加えて指印が押捺されているのであり、同号証には売買物件名が本文の用紙と契印された別紙に記載されているのである。このことに照らすと、乙一号証をもつて後に空白部分に物件名が記入された偽造文書であるとはいいがたいものというべきである。

更に、乙一号証はその外枠点線上に収入印紙が貼られその収入印紙上に松太郎の実印で割印がなされているのであり、更に、松太郎の署名及び押印と外枠点線との重なり具合からすると、三郎が松太郎をして白紙に署名押印させた上そのあとでその余の部分を印刷したものとは到底認めがたいのである。

(3) また、控訴人は、「本件建物は松太郎にとつて唯一の財産であり、その賃料収入が唯一の収入源であつたから、松太郎が本件建物を売却するはずがなく、当時松太郎が金銭を必要としていた事情も特になく、現に松太郎は日頃から一人娘で精神に障害のある控訴人のために本件建物を残しておくと言つていたのであり、時価六九〇〇万円以上もする本件建物及び本件借地権をわずか二〇〇〇万円で売却するとは到底考えられないのである。」旨主張する。

しかし、《証拠略》によれば本件借地の借地期間は一応昭和六四年一一月までであつたと認められ、これに、《証拠略》を併せ考えると、右期間満了の際、賃貸人が松太郎に対し、更新料を請求することが当然予想され、一方松太郎には右更新料を支払う能力がなかつたと認められるのであるから、松太郎がこの際本件建物及び本件借地権を売却し現金化しようと考えたとしてもなんら不合理とは認められない。

(4) 加えて、《証拠略》によれば、控訴人は松太郎が署名をするのを見ていたというのであり、また、松太郎が自ら潮来町の役場まで赴いて印鑑登録票の交付を受けてこれを三郎に渡したというのである。

(5) その他本件証拠を子細に検討しても、控訴人の前記主張を肯認するに足りる事情は認められない。

三  再抗弁1(公序良俗違反)につき検討する。

1  当審鑑定の結果によると、本件借地の昭和六二年五月一日現在の更地価格は二億八一〇〇万円と認められ、借地権価格をその六六パーセントとみるのが相当であるから、本件借地権の価格は一億八五四六万円と認められる。

他方、本件建物には株式会社イトサン商事等の賃借人が存在するが、当審鑑定の結果によると、右賃借人らの本件建物に対する借家権価格は本件借地権価格の三〇パーセントに相当する五五六四万円と認められる。

そうすると、昭和六二年五月一日現在の本件借地権価格は一億二九八二万円と認められ、本件建物及び本件借地権価格の合計額は右一億二九八二万円を下らなかつたものと認められる。

しかるに、松太郎は本件建物及び本件借地権を代金合計二〇〇〇万円で被控訴人に売り渡したものであり、その代金額は客観的価格の六分の一以下である。価格の適正さを著しく欠いているものといわざるを得ない。

2  また、前認定のとおり、本件借地権の売却については松太郎の費用負担において地主の承諾を得るものとされているが、当審鑑定の結果によれば、本件借地権の適正譲渡承諾料は本件借地権価格の一〇パーセントに相当する約一八五五万円であることが認められるから、これを売買代金の中から支払うと、松太郎の手元にはわずか約一四五万円しか残らない計算となり、更にこれから譲渡所得税を支払うものとすれば、残余はほとんどなくなり、本件売買契約は松太郎にとつて経済的に全く不合理なものとなるのである。

3  更に、松太郎は、本件売買契約締結当時八八才の老人で法律的知識はなく、本件借地権の売却につき地主に譲渡承諾料を支払わなくてもよいと考えていた形跡も窺われるのであり、他方、三郎は、不動産業及び金融業を営むものである。

4  以上の事実を総合すると、本件売買契約は公序良俗に違反し無効と評価すべきものである。再抗弁1はこれを是認することができる。

四  再々抗弁について

1  前認定のとおり、松太郎は、本件売買契約に基づき、昭和六二年五月一日に手付金として二〇〇万円を、同年五月二一日に中間金として二〇〇万円をそれぞれ受け取つた。

2  そして、売買契約が公序良俗に違反し無効である場合においても売主と買主の各原状回復義務は特段の事情のないかぎり民法五三三条の類推適用により同時履行の関係あるものと解するのが相当であるから(右解釈は、売買契約が要素の錯誤により無効である場合及び詐欺により取り消された場合でも同様であるから、本件において、抗弁2(錯誤無効)及び抗弁3(詐欺取消)について判断する必要はない。)、特段の事情の認められない本件においては、被控訴人の本件仮登記抹消登記手続義務と控訴人の手付金及び中間金合計四〇〇万円の返還義務とは同時履行の関係に立つものというべきである。そうとすると、被控訴人の再々抗弁は理由がある。

五  以上のとおり、被控訴人には控訴人から四〇〇万円の支払いを受けるのと引換えに本件建物についてなされた条件付所有権移転仮登記の抹消登記手続きをする義務があるから、控訴人の本訴請求は右の限度において正当として認容し、その余を失当として棄却すべきものである。したがつて、これと異なる原判決を右のとおり変更することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、九二条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 原田敏章 裁判官 内田計一 裁判官 林 俊之)

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